近藤長次郎顕彰会

  





沢山の皆様にご賛同して頂きました。    ありがとうございました
H23年3月26日 完成除幕いたしました



 

表面

うき雲の
たちおほふなる
うきよなり
きへなハこれを
可たみともみよ




(昶次郎が身重の妻お徳に送りし最後の句)
曾孫 川邉篤次郎 書


「憂き雲が立ち覆うている、今のこの時勢である。
いつどうなるか命のほどもわからない。
もし私が一朝の露と消えたら、
この歌をもって形見としてくれ」










裏面
碑文と寄付者のお名前を刻んであります






「近藤長次郎顕彰会」
〒802−0061
北九州市小倉北区


会長 川邉篤次郎






近藤長次郎は天保9年(1838)3月7日、土佐藩高知城下崎餅菓子・饅頭などを売る商家『大里屋』の長男として誕生した。それ故、苗字帯刀を許されるまでは「饅頭屋長次郎」と呼ばれていた。子供のころから饅頭を売り歩く傍ら、読書や勉学に励んでいた。20歳を過ぎた頃「大里屋」の家督を妹の亀に譲り、高い志を持ち江戸へ遊学する。苦学して儒教、洋学、砲術を修め、文久2年(1862)勝海舟の弟子となり、航海術を学ぶ。長次郎は諸藩から「ぜひわが藩に」との申し出が相次いだと言う話が残るほど評価が高かった。ゆえに文久3年(1863)土佐藩主・山内容堂から苗字帯刀を許され近藤姓を賜る。土佐藩士 近藤昶次郎の誕生である。

その後、長崎で龍馬と共に亀山社中を設立。東奔西走する龍馬に代わり交渉力と英語に長けた長次郎は社中の事実上の責任者を務め活躍した。
長州藩主毛利敬親公ならびに薩摩藩主島津久光公にも謁見し、薩長同盟の為に奔走する。
グラバーや薩摩藩家老小松帯刀の協力があった事はいうまでもありませんが、薩摩名義で軍艦ユニオン号や銃器を買い付け、長州藩に引き渡すという大役を果たし、薩長同盟の成立に大きく貢献した。
この働きに長州藩主毛利敬親は大いに喜び、長次郎はじきじきの労いのお言葉と「三所物」それに「後藤祐乗作の名刀」を賜ります。

薩摩藩家老小松帯刀からは「この男は後来役にたつ男だ」と言わせ、渡英資金を援助してもらい、薩州藩士上杉宗次郎として、更なる高い志を抱き、英国留学させてもらうはずであったが、叶わず慶応2年正月24日29歳の生涯をとじた。

長次郎は藩の垣根を越え多くの人達から愛された。
明治31年7月4日宮内庁より正5位を賜る。

長次郎が明治維新後も生きていれば、どんな人物になったでしょか・・・・
持ち前の商才や語学力を活かし、大実業家になったかも知れませんし、あるいは交渉力を活かして、優秀な外交官、いや外務大臣なったかもしれません。そう考えるととても残念です。

長次郎の志は、長崎の海の向こうにありました。彼は実際に異国を見て学び、身につけたことを活かして日本のために尽くそうと考えていたはずです。しかしその志は叶いませんでした。

長次郎が志を抱き、又その志を断たれたのもこの長崎でした。
その長崎の地に顕彰碑を建立し、その功績を全国に広めたいと思います。


長次郎の墓

長次郎の遺体は、長崎市寺町皓台寺墓地内の幕末期砲術家高島秋帆墓地の裏手(山側)にひっそりと 葬られた。1968年に、同寺の小曾根家墓地に、移された。






会について


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